山方篤定(やまがたあつさだ、能登守、為恭とも)は、山方氏六代の当主で、「佐竹の智恵袋」と称されました。
母は小野崎刑部丞源義次の娘。
天正19年(1591年)、主君・佐竹義宣に南方三十三館の誘殺を献策・実行し、常陸統一に貢献しました。
慶長元年(1596年)8月25日、78歳で没しています。
歴史的背景
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐で後北条氏が滅亡すると、早くから秀吉に通じていた佐竹氏は常陸国(現在の茨城県)一国の支配を認められました。
しかし当時の常陸国内には、鹿島・行方両郡を中心に「南方三十三館」と呼ばれる中小の国人・領主たちが割拠しており、佐竹氏に完全には服属していませんでした。豊臣政権のもとで大名としての領国支配を確立するには、この勢力の排除が課題となっていました。
山方氏は、室町時代初期(応永14年/1407年)に常陸へ下向して以来、代々佐竹氏に仕えた重臣の家系です。
山方篤定が当主を務めた16世紀後半は、佐竹氏が戦国大名として常陸統一の総仕上げに取り組んでいた時期にあたり、重臣として主君の統一事業に深く関与する立場にありました。
主な出来事
- 天正19年(1591年)2月9日:鹿島・行方両郡の領主たち(南方三十三館)を太田城に集めて謀殺する策を佐竹義重・義宣父子に献策し、実行に加わる。自らも領主の一人・鹿島清房(清秀とも)を捕らえ、山方御城へ連れ帰って殺害した(太田三十三館誘殺)
- 天正19年(1591年)3月:佐竹氏の水戸城入城に伴い、関東支配所御番頭・寺社奉行に任じられる
- 慶長元年(1596年)8月25日:死去。享年78
年代不明
- 山方氏六代の当主。母は小野崎刑部丞源義次の娘
- 子に山方氏七代・山方重泰がいる
参考図書・資料
- 「山方御城と山方氏」パンフレット(常陸大宮市振興財団)
- 山方豊『我が家の昔』第四章「常陸に於ける山方氏」
- 『山方町の歴史散歩』第三号(山方郷土史クラブ、金子一夫)
- 「戦国時代の水戸藩」(江戸三百藩)
- ブログ「戦国風説記」記事『南方三十三館仕置』(新井白石『藩翰譜』元禄15年/1702年成立、を主典拠とする要約)

