概要
山方俊則(やまがた としのり)は、常陸国(現在の茨城県北部)で戦国大名・佐竹氏に仕えた山方氏二代にあたる人物です。
通称は介八郎、忠兵衛、のち能登守。父は山方氏初代・山方盛利、子は山方氏四代・山方俊治。
応永25年(1418年)生まれ、延徳2年(1490年)没、享年73。
主君・佐竹十四代当主から諱の一字を受けたと伝わりますが、生涯の詳細な事跡はあまり伝わっておらず、名の表記も史料間で相違があります。
歴史的背景
山方俊則が生きた15世紀は、佐竹家中の内紛「佐竹の乱」が続いていた時期にあたります。
応永年間に山内上杉家出身の佐竹義人が婿養子として家督を継いで以来、佐竹一門の山入氏らはこれに反発し、宗家と庶流の対立が断続的に続いていました。
享徳元年(1452年)には、義人の偏愛を受けた弟・実定との内紛から、当主・義俊(義従)とその子が居城・太田城を追われる事態も起きています。
さらに享徳3年(1455年)以降は、関東を東西に二分する大乱「享徳の乱」が始まり、鎌倉公方方と関東管領(山内上杉家)方の対立が常陸国にも波及しました。俊則の生涯は、佐竹家内部の権力争いと、関東全域を揺るがす大乱という、二重の政治的動揺の時代と重なっています。
主な出来事
- 応永25年(1418年):誕生
- 山方氏二代にあたる
- 主君・佐竹十四代当主の義俊(史料により「義従」とも表記される。佐竹義人の嫡男で、常陸下向した山方盛利が後見人として仕えた佐竹義人の孫にあたる代の当主)から、諱の一字(「俊」の字)を受けたと伝わる
- 享徳元年(1452年):義俊が、父・義人に偏愛された弟・佐竹実定との対立により居城・太田城を追われ、一族の大山氏を頼って常陸国孫根城へ逃れた際、山方氏もこの主家の退避に従ったと伝わる
- 妹が曾根氏(常陸の一族)に嫁いだと伝わる
- 子・山方俊治(山方氏四代)をもうける
- 延徳2年(1490年):73歳で死去
補足事項
この世代の名の表記には史料間で相違があります。『山方町の歴史散歩』第三号の系図・年代記は一貫して「俊則」(一説に「俊利」)と記す一方、山方豊『我が家の昔』の系図では同じ世代を「盛勝」と記しています。
両史料とも世代の位置づけ(盛利の子、俊治の父)は完全に一致するため同一人物と見られますが、名の表記自体は一致していません。また『我が家の昔』の本文は、子・俊治を「盛利の孫」と述べるのみでこの世代の人物への個別の言及がなく、名を直接確認できる記述は今のところ見当たりません。
参考図書・資料
- 『山方町の歴史散歩』第三号(山方郷土史クラブ、金子一夫) — 「俊則(俊利)」の名・生没年・佐竹義俊との関係を記す
- 山方豊『我が家の昔』第四章「常陸に於ける山方氏」の系図部分 — 同じ世代を「盛勝」と記す

