山方俊治(やまがたとしはる、一説に「利治」)は、山方氏三代の当主です。
祖父は山方氏初代の山方盛利、父は二代の山方俊則、子は四代の山方国利にあたります。
生年は宝徳3年(1451年)、没年は享禄4年(1531年)7月19日、享年81。佐竹氏の重臣として、主君・佐竹義舜の危機を支えた人物として伝わっています。
歴史的背景
室町中期の常陸国では、佐竹宗家と庶流・山入氏との対立「佐竹の乱」が応永年間から100年近く断続的に続いていました。山方俊治が家督を継いだ頃の主君・佐竹義舜は、家督相続直後の混乱に乗じた山入氏義らの攻撃を受けて太田城を追われ、孫根城、さらに東金砂山へと追い詰められる苦境に立たされます。山方氏は初代・盛利が佐竹義人(義憲)の傅役(後見役)として常陸へ下って以来、代々仕える譜代の重臣でした。こうした主家存亡の局面でも、行動を共にする立場にありました。
また同じ15世紀後半の関東では、山内上杉氏と扇谷上杉氏が争う長享の乱が進行しており、武蔵国須賀谷原を舞台にした合戦も起きています。山方氏の家伝が伝える相模国須賀谷原の合戦(文明18年)とは年代・国が異なりますが、同時代に「須賀谷原」を舞台とする合戦が別に存在したことは、後述する異説の背景として押さえておく必要があります。
主な出来事
- 宝徳3年(1451年):誕生(山方盛利の孫、山方俊則の子)
- 文明18年(1486年):佐竹の名代(代理として派遣される者)として相模国須賀谷原の合戦に出陣、関東公方・足利政氏(この時点ではまだ古河公方就任前とみられる)より戦功の感状(功績を賞して発給される文書)を受けたと伝わる。一説には、この合戦は年代・国・当事者のいずれも、別に伝わる須賀谷原の戦い(長享2年/1488年、武蔵国、上杉定正対上杉顕定)と一致せず、両者が同一の合戦かは未解決とされる
- 明応9年〜文亀2年(1500年〜1502年):山入氏義に追われた主君・佐竹義舜が金砂山に籠城した際、安藤右京亮・八木備前守らとともに最後まで従軍。自刃しようとした義舜を諌止し、思いとどまらせた
- 同籠城戦中:兵が尽きかけた窮地に暴風雨が起こり、これを好機として反撃に転じ、義舜方が山入氏義軍を大敗させる(金砂山の逆転勝利)。義舜は太田城への凱旋を果たし、俊治は主君から厚く賞された
- 享禄4年(1531年)7月19日:死去、享年81
年代不明
- 弟に、佐竹一門・小川氏を継いだ利安がいる
補足事項
- 名の表記に異説があります。「俊治」のほか「利治」とする史料もありますが、生没年・世代の位置づけ(盛利の孫、俊則の子、国利の父)が一致するため、本記事では同一人物として扱います
- 須賀谷原合戦の年代・関係者について、旧来の家伝パンフレット単独の記述には他史料との齟齬が指摘されていました。しかし複数の郷土史料が独立に「文明18年・足利政氏の感状」という同じ記述を伝えており、俊治自身の事跡としての信頼性は一定程度裏付けられています。
参考図書・資料
- 山方御城と山方氏パンフレット(常陸大宮市振興財団)
- 山方町の歴史散歩 第三号(山方郷土史クラブ、金子一夫)
- 山方豊『我が家の昔』第四章「常陸に於ける山方氏」
- Wikipedia「須賀谷原の戦い」(要約) — 年代・国・当事者の異なる同名の合戦との異同確認に使用

