山方氏と佐竹氏との関係は、応永十五年(1408年)山方盛利が佐竹義人(幼名:竜保丸、後に義憲と改名)の守役として常陸国に下った事から始まりましたが、両人の関係について整理しておきましょう。
佐竹義人は佐竹家に婿養子として入りましたが、元々は上杉性であり、父は上杉憲定ですので、
数代遡ってみますと、上杉憲顕に辿り着きます。
一方、山方盛利も山方性を名乗っていますが、元々は上杉性であり、数代遡ってみますと、
次のような関係とわかります。
上杉憲顕の第六子 → 上杉憲利 → 山方盛利
つまり、両者とも上杉憲顕の子孫であり、両者は同族の関係にあるのですが、系図の必要箇所のみ摘出してみますと、
上杉憲顕
┣━━━━━━━━┳
上杉憲方 上杉憲利
┃ ┃
上杉憲定 山方盛利
┃
佐竹義人
となり、山方盛利にとって佐竹義人は従兄弟の子という関係に当たります。
お互い同族で、かつ山方盛利が佐竹義人の父親である上杉憲定の元に身を寄せていたとすれば、盛利が義人の守役として選ばれても不思議ではありません。
結果として、応永十五年(1408年)竜保丸(後の佐竹義人)は、山方盛利を守役として常陸国の佐竹家へ婿入りすることになります。
しかしながら、源氏佐竹に藤原姓の養子がくることに反対した佐竹義貞の七男師義の子与義(よりよし)は、同門の稲木義信・長倉義景・額田義亮とともに反乱を起こし(山入の乱)、今後100年間、佐竹氏内部では争いが続きます。